テレビっ子 変則練習

sansinzamurai

2011年12月30日 23:27



今年の夏、八尾のおわらに行ったときに、全くの偶然で聴いていた三味線の音。
今日、テレビでおわら特集の再放送を見ていてあれが、おわらの恩人と言われる故人松永由太郎氏の三味線の40年ぶりの演奏だったことを知りました。
あのとき偶然知人に遭って町流しを案内していなければ、人込みの嫌いな自分が観光客の多い石畳の道に向かうなんてことはなかったと思うし、二度とないかもしれない貴重な機会だったなと思います。
もしも三線をやってなくて自分が邦楽系のものをやるなら「おわら」しかないと思われます。それは祖母がおわら好きで、子供の頃聴いていたし、私に沖縄音楽観みたいなものがあるかは不明だけど、おわら観、おわら美学みたいなものは自分の中にあるような気がするからです。

おわらの踊りは「かっぽれ」が原型で、故・松永由太郎氏が明治44年に「豊年踊り」(旧踊り)を考案したのが始めだそうです。それまで、おわらには踊りはなかったというのも今となっては驚きです。松永由太郎氏の足跡を追い、子孫のかたの前で弟子のかたが40年間誰にも弾かれることのなかった由太郎氏の三味線の演奏をするという番組内容でした。
「かっぽれ」が原型という部分は、ちょうど明治末から大正初期に伊良波尹吉氏に創作されたとされる琉球舞踊の「鳩間節」がやはり「かっぽれ」を取り入れていることと時代背景が似ています。(おわらを沖縄の音楽に似ているというかたがあります。これは胡弓が入っている部分が大きいと思われますが、おわらに胡弓が入れられるのも実は明治40年代といいますから時代は随分と新しいことになります)
おわらの三味線は三分のコマを使うのだそうで、そうすることにより五分のコマを使うよりもやわらかい音になるのだそうで、これまたへぇ~と思いました。
もともと踊りのなかったものに踊りをつけ、定着し今のおわらとなった。
伝統と現代型の境界は常に悩みです。
三線や沖縄の唄をやっていて、手前勝手がどこまで許されるのか、余所の文化を冒涜してはいまいか、いつもそんなことが頭から離れません。
まがりなりにひとにも教え、いかなる人も受け入れるというスタンスなので更に悩みは増幅します。
三線で一人、おわらもどきを奏でながら来年のことをぼんやりと考えるのでありました。

別の番組で、おわら保存会の会長とタレントの柴田さんのお母さんとの話がまたよかったです。戦中戦後を語れる人もどんどん少なくなっています。
昭和20年は「風の盆」は中止なったと聞いていたけども、番組の保存会会長の福島さんのお話しによれば、終戦直後で食べる物もなかったけどもそれでもおわらをやったのだとか。
柴田さんのお母さんによると、昭和21年のおわらが初めての参加で大変うれしかったと。しかしみんな浴衣がない(食べるために米などと替えていた)のでそれは母親やおばあさんやらのを借りたが、何かを揃えようということになり、帯は葬式のときの黒い帯なら皆持っているということで、さらに帯締めは草履の赤い木綿の紐を使いこれが今に続いているのだそうです。大変な時代のいい話だなと思いました。
福島さんの、八尾でおわらを残さなければという原点は、福島の下駄屋さんや若林の爺ちゃん(若林美智子さんの祖父)たち名人の戦後の人も少ない時期にされた背筋が伸びるような町流し、それが原点なのだとか。
番組の最後にされた福島さんの三味線、お母さんの唄が実に味わい深いものでした。
福島さんは福鶴酒造の社長で、筑紫さんがおわらにいらしたときの一宴の恩義で、何年かお店に通ってお酒を買わせていただき沖縄に送ったり先生に持って行ったりしていたことがありました。私はその日東京にいてお会い出来なかったけど、このかたがと…たまたまテレビを見ていてよかったなという日でした。
来年もまたおわらに行きたいなと思ったことでした

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