2008年08月06日

沖縄島唄と擬似恋愛

沖縄島唄と擬似恋愛

カテゴリーに新しく小論文を加えました。
でもめったに使わないのでご安心ください!?

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身近なところに音楽が満ちている沖縄。
朝から街には三線の音色が聞こえ、夜になればストリートではアマチュアに加えプロまでもが音楽を奏でている。
沖縄では音楽にお金を払う習慣がないという。一面においてはその通りだと思う。
県内の著名な音楽家の演奏であっても内地では考えられないような値段で見ることができる。
ただ沖縄でも世界のトップアーティストが来れば、高いお金を払ってでも見ようという人はたくさんあるはずで、音楽を聴くことにお金を使えないわけではない。
違いは音楽性の高い低いではなく、構造にあると思われ、それが沖縄の島唄ビジネスの特徴にもなっているのだと思う。
比較的小さな場所(しかも雑然とした)で、客席と普通に話しができるくらいの距離で演奏が行われ、演じる側も特別な扱いを受けない。
遠い孤高の存在の芸能人ではなく、知り合いでもあるかのような身近な誰々さん。でもその誰々さんは、その世界では一角の人物で、それゆえ世の中の一流とも結びついている。
そのような演じる側=アーティストとの交流の楽しみが、商業ベースの島唄の楽しみのひとつであり、それは擬似恋愛にも似たものではないかと思われる。

そのような擬似恋愛性はインディーズ・アーティストとファンとの関係にも似て、アーティストが少し売れてくると、ファンの中には、アーティストが遠くへ行ってしまうようで寂しい、これ以上有名にならないでほしい等というファンも現れる。
応援されるほうもこれではこれでは浮かばれないし、なんとも値のないことだが、もともと擬似恋愛的なファンとの交流を基に現在を築いてきたという意味では仕方のないことなのかもしれない。
一般的なインディーズ・アーティストが必ずしも音楽的に優れているとは限らないのに対して、島唄のアーティストはその世界では一流の地位を築いてきた人が少なくない。
内地の芸能人のプロモーション方法によくある、遠い孤高の存在で光輝き、都合の悪いところはひたすら覆い隠されるという、ある種宗教にも似た図式とは大きな違いがある。
演じる側は普通の人として生きて動いて喋っている誰々さんなのだ。
擬似恋愛の勘違い度は遠い孤高の存在との関係よりも当然高い※。
恋愛なら異性はともかく同性の場合はどうなのかとなるが、肉体関係を前提としない擬似恋愛ではそのあたりの障壁はなく、また次元が違うとも言える(愛犬、愛車などという表現があるように)。恋愛と違い、擬似恋愛は一方的な思い込みだけでも成り立つのだ。
(※最近では折衷方式もあり、遠い孤高の存在と身近な存在をうまく使い分けたのもあり、これもファンにとって魅力となっている。遠い孤高の存在であれ何であれ擬似恋愛的なものに陥る人があることは当然理解のうえ)

沖縄ブームといわれ、昨今大きなイベントも多くなっているが、舞台を見ていて何か違うと感じることがしばしばある。
そのような場所では、演じる側は普段の姿をそのままに出してはいけないのかもしれない。
大きな会場は、見る側からすれば、アーティストが小さく遠く見える場所なのだ。
大きな舞台を日常とする人はそのような場所でもうまく場を支配する。
作り手は、擬似恋愛からファンが目覚めないよう、工夫と慎重を要する。
恋愛はときに殺人にまでいたる厄介なものだが、沖縄島唄とファンの擬似恋愛性の関係も島唄を生かしも殺しもするそんな性質を秘めてはいないかと思われる。  〔2008.8.6 記〕




Posted by sansinzamurai at 19:00│Comments(0)小論文
 
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